東京輪舞の感想と邪推

東京輪舞、3回観劇した感想を超えた邪推をぐだぐだと書き連ねてみたいと思います。観劇後の方向け。
※術中セリフはメモを取っていたわけではないのでニュアンスです

私が拝見したこちらの感想は非常にわかりやすく、更には原作にまで言及があるためまずこちらを読まれることをお勧めします。

https://nami7373.hatenablog.com/entry/2024/03/24/162419

こちらで正直完璧なのですが、もっともっと邪推してみたくなってしまいこの記事を書いています。

また、上記はシーンごとに分けられて感想が書かれていますが、わたしは逆に登場人物評的な感想の書き方にすることにしてみました。なのでシーンもあっち行ったりこっち行ったり。舞台のように、感想もぐるぐると踊ってみようと思います。


1.マカナ、カイト、マダム(ショウコ)

マカナって見た目からしてすでに圧倒的にヤバいなっていう。ピンクヘアー、タバコ、冬なのに太もも出してて、最初にくるみちゃんが舞台に出てきた瞬間一発で観客に「あ、この子、ヤバい子だろうな。」と分からせる力を持ってるし、一瞬でその世界観に引き摺り込むビジュアル。
でも、見た目でただのバカに見せておいて結構やってることは賢くてエグい。カイトをイケメン(だからむしろ私が積極的にヤリたい)と持ち上げておいて、先に性行為して逃げられなくして後から5000円請求する。さらにカイトが逃げてからは「ふざけんなよ、住所特定してやるからな!」と怒鳴って脅す。普通のお兄さんがやられたら縮み上がってしまいそうなカツアゲ紛いの行為です。

ここで突然マダム(ショウコ)との最終幕の話をしますが、そこで対比かのようにマカナがマダムに「私だけ住所特定されててヤバくない?」と言うところがあるのです。この「住所特定」って言葉を、一幕と最終幕でわざと全く同じ表現で使っている。

一幕の発言から、マカナは住所が人間の弱点になりうると分かってることは明らかです。しかしマカナはそれを気にせずいろんな人間を家にあげているような印象を受けます。一幕でも「明日生きていられるかなんて分からない」「(警察に)捕まえてほしいんだもん」と言い、最終幕でも「その時そこにいたから」という理由でいろんな人と刹那的な関係を結ぶマカナにとっては、住所など何の意味もなさないということなのかもしれません。

マダムとカイトの対比としてさらに面白いのは、パワーバランスの違いです。
マカナとカイトでは、カイトが明らかに上です。マカナがどれだけねだっても、名前は教えない、家にもあげないし、お金もあげない。「お兄さんも獣じゃん」って表現されてる通り、野生の嗅覚でマカナはヤバいと分かってる。

ところがマダムは、カイトに比べると圧倒的に脇が甘く、野生の嗅覚はほぼゼロ。
マカナに言われるがままに4万払い、ラインを教えることは嘘をついて断るのになぜか名刺は渡してしまうという愚行を繰り出します。しかもここで渡すのが「名刺」というのが本当に本当に痺れました。後で言及しますが、マダム(=ショウコ)はおそらくプライベートはほぼなく、人生のほとんどを社長業に捧げているように見えます。つまり「名刺」とは「ショウコの人生そのもの」に近いわけです。名刺に書かれている肩書きを失ってしまったら、ショウコには何が残るでしょうか?その全てを守るために必死になっている彼女が、九幕で涙を流す彼女が、自分が買ってしまった女に「いつでも頼ってね」と名刺(=弱点=住所)を渡すのです。

そしてその時の顔は、マカナが何度もウザいというような「お母さん」としての顔に見えます。
ショウコは劇中、ユウトという息子がいることはわかりますが、具体的な息子の描写は一切出てきません。母親としての生活が垣間見えるような表現はありません。おそらく、プライベートの「お母さん」のショウコでは、脆くてマカナの力にはなれない。けれど、社長としてなら力になれる。
そんなショウコの弱さと、更に後から売春の件でゆすられるかもとかは考えもつかず、純粋にマカナへの心配が勝っているのが感じ取れるシーンでとてもよかったです。

そして、この最終幕の新宿のマカナの部屋だけは独立したセットになっています。いままでの劇中は「とーきょー」と書かれまくった壁や、「RONDO」という文字を並び替えて、ずっといろんな部屋を再現してきたのに、です。
つまりあの部屋は、新宿にありながら「東京(現実)」から隔絶された優しい空間であるという暗示ではないでしょうか?
部屋のシーンの最初では工事の音は全く聞こえず、途中で突然工事の音が流れ、マダムはマカナと話し込んでいたことにハッと気がついて帰ろうとします。(その後もしばらく引き止められますが、その間も小さく工事の音が鳴り続けます。)
工事の音はつまり、マダムが戻らなければならない日常であり現実です。東京の中に組み込まれた一部分です。

本当のラストシーンで、ショウコは工事現場の人に「何すか?」と言われます。あれはつまり、ショウコがまた東京の日常に戻っていった表現だと思えました。

さらにいうなら、あの部屋のセットは実は最初の公衆トイレの裏側に作られており、思えば第一幕も「とーきょー」の壁と「RONDO」は出てこずに公衆トイレのセットがあるのみです。
「ご褒美」「贈り物」であるマカナが導く場所は、「現実からの逃避」が可能な場所なのかもしれないと思うと、オシャレすぎて倒れそうになります。

2.カイト、ジャスミン、マサ

カイトはある種一貫性を持って描かれている印象です。マカナとも寝るし、ジャスミンとも寝る。カイトは普通に女の敵というか、クズなんだけど、クズを隠そうとはしないクズ。カイトの言葉に嘘はないけど、その分全然重みもない。なんとなく耳障りは良いけど、多分女本人に対して興味もない。「俺金ないよ」「恋人いても良いよ」「それ(=好き)って許可が必要?」

第一幕で、カイトとマカナがキスした後に「アオーン」と遠吠えをするマカナを諌めるというシーンがあります。けれどジャスミンのシーンでラブホを後にする時はカイトが「アオーン」って言いながら去っていく。マカナもカイトも、獲物を捕らえた時に「アオーン」って言っているように思えるのです。

さてジャスミンはカイトを「元彼」と表現していましたが、カイト側の認識はどうでしょうか?
ジャスミンのいう「好き」とカイトのいう「好き」は全然重さが違って、カイトはLIKEだけど、ジャスミンはLOVE。
ただジャスミンも、カイトの人間性が好きとかそういう視点はない薄っぺらい愛なのです。自分を好きと言ってくれるから好きという感じで、カイトの中身まで見ようとする感じはありません。「男の人信用してない」と言う割に、一回寝てちょっと褒められただけで好きになってしまう。カイトに「好きになっても良い?」って聞くシーンでは、ついつい劇中になんでやねん!とツッコみたくなってしまう。

この恋愛は続かないだろうな、と思わせたまま舞台はマサとジャスミンの第三幕へと移ります。ジャスミンはもらった指輪をネックレスにして大切に仕事中でも身につけていて、カイトのことを語る時は幸せそうで嬉しそうです。第二幕では恋にひたむきで純粋に見えるジャスミンですが、第三幕ではまた違った見え方になります。

第三幕で、唐突に「AV出演」について追求され、マサに関係を強要されるジャスミンですが、性的関係の強要までの会話がジャスミンの人間像をより鮮明にしていきます。

前提として、ジャスミンはAVに納得した上で出演したでしょうか?自分から、稼いで故郷の父母にいい暮らしをさせてあげたい!と考えたのでしょうか?第三幕からはそのような印象は全く受けません。どちらかといえば、「騙されて」出演したように思えます。

マサはいわゆる「勝ち組」です。お金持ちの家に生まれて、本人の将来もほぼ約束されているのでしょう。マサの発言からは随所に「経済的負け組」に対する卑下が現れています。そしてマサはジャスミンに、明確に「お前は搾取される側だ」と何度も何度も表現を変えて言い続けます。

「たいていの人がつまらないと思うものはとても大事なものなんだ」
「うちの親はジャスミンのお父さんとお母さんが一月で稼ぐ額を5分で使い切る、そういう人間なんだ」

いくら雇用主(の息子)とはいえこんなことを言うべきではありませんが、このマサというもう観客の9割は嫌いだろうなという人間の描写が、これまたリアルでエグくてたまらないのです。

「騙されて」AVに出演し、雇用主に性的関係を「強要される」ジャスミンは、常に誰かから搾取され続ける弱者です。
ジャスミンが言う「人生は不平等だから、でも幸せは平等」というセリフは、一見非常に前向きに思われますが、実は人生に対する諦めを含み、搾取から逃れるために考えて行動することをやめてしまっているとも取れます。ジャスミンはおそらく第三幕の後も何度もマサから性的関係を強要されるでしょう。最終幕では、元彼のカイトはマカナと寝ており、さらにそのマカナと「六本木のお店」で働くことになっており、常に搾取され続けていることがわかります。自分の手にある幸せを溢すことなく大切にするためには、受け入れるだけではなく戦わなくてはいけない時もあると思うのです。

さて、最低男のマサはどんな人間でしょうか。マサはとても恵まれていますが、実は他人を「自分を彩るモノ」としか捉えることができない人間として描写されているように思えます。
ジャスミンにAV出演を追及するシーンで、マサは「ああ〜なんでモザイクってあるんだろう!」と言い放ちます。このセリフには一切の人間への尊厳が感じられず、
AVに出演している女の子を、完全にモノとして扱っているような、背筋が冷たくなるような恐怖を感じるのです。

マサにはジャスミンは人間には見えていません。
では、サヨはどうでしょう?
天文学的に好き」なサヨのことは、人間に見えているのでしょうか?

サヨが帰って、1人になった時に思わず溢れる「あのショウジサヨだぞ〜〜!!!」と言うセリフ。
このたった一言だけで、マサがサヨを口説いたセリフは全て色褪せ、「人妻の人気作家」という肩書きに惹かれているだけだとはっきりと分かってしまうのです。

3.サヨ、マサ、タツヒコ

サヨの話に移ります。
第四幕でのサヨのマサに対するセリフから、サヨの物の見方を窺い知ることができます。
印象的なのは、「この好きは友達の好きに留めておいたほうがいいと思うんだ」というもの。
このセリフはだいたい以下のように続きます。
「マサくんは私より稼いで、忙しくなるでしょ。そしたら私は絶対にさみしくなって、振り回されて、泣かされて、まるで自分が主体性を持っていない女であるかのような気持ちにさせられて (略) つまらない、すごくすごくつまらない、自分でもそのつまらなさに蓋をして、見なかったことにして、また誰かに依存して、つまらなさを上塗りして、傷つけて、傷つけられて、またただ終わる。そうなるくらいなら、友達のままの方がいいって思う世界線の自分もいる。」

私はこの長尺のセリフのラストで、"また"ただ終わる。と、なぜあえて"また"とつけたのかがとてもとても気になるのです。いまサヨが手にしているのは、新しいマサとの恋愛と、夫であるタツヒコとの恋愛です。始めるか悩んでいる恋愛を前にしたこの"また"という単語に、タツヒコとの恋愛の終わりを感じ取っているような気配がするのです。

第五幕で、タツヒコはサヨに「友達のパートは終わりで、新婚夫婦のパートが始まるってこと。」と言います。そしてサヨはそれを受け入れたにも関わらず、新婚夫婦のパートはいつのまにか終わりを告げ、第九幕では離婚していることがわかります。

サヨの中では、友達であれば「好き」は終わらず、恋人や夫婦であればいつか「好き」は終わってしまう。
その終わりはサヨ自身が相手に振り回されて主体性を失ってしまった時に起こり、その主体性を失う自分を"またか。"とどこか冷静に見つめているサヨが存在しているのだと思います。

タツヒコとサヨのパワーバランスは、一見するとサヨが上のようで実はサヨが下であることを暗示する描写が第五幕には散りばめられています。

第五幕の冒頭、サヨは遅く帰ったにも関わらずタツヒコは一切そのことに触れません。さらに、マサとラインしているのか会話の最中もずっとスマホをいじり続けるサヨにも全く気が付かないのです。

タツヒコは、「愛と性欲はできれば一緒の方がいい」と言い、「サラブレッド」のサヨとは違っていろんな環境で「愛が歪む」ことがあると言います。このシーンからは、まるでタツヒコはサヨとの結婚を「自分はノーマルな人間であると証明する」ための道具であるかのような印象を受けます。

タツヒコはサヨのことをずっと持ち上げています。「サヨはすごいよ、賢くて、魅力的で....」そして、サヨと意見がぶつかった時にもタツヒコは言いたい言葉をグッと飲み込んで引くのです。まるで、本当に心からは分かり合えないと思っているかのように..。

しかしサヨは自分をクズだと蔑むタツヒコに、「たっちゃんが私を選んで、私がたっちゃんを選んで、たっちゃんが私を愛し続けるかぎり、たっちゃんは優しい人だよ」というのです。サヨがタツヒコからの愛を疑い、愛し続けることを強制するかのようなセリフです。

そして2人は愛を確かめるかのようにセックスをして、暗転の中でサヨとタツヒコの印象的なやり取りへの場面は進んでいきます。

第四幕の最後で、サヨはマサに「大好き」と言ってキスして帰っていくのですが、第五幕の暗転後に「私が欲しい言葉を言って」とタツヒコにおねだりし、「大好き」と言われた際には「それじゃないんだよなぁ、欲しかった言葉は。」と言うのです。

これに気がついた時、もはや感動を通り越して劇中にも関わらずしばらく呆然としてしまいました。

サヨとタツヒコが始めようとしている新婚夫婦のパートは、すでに最初からすれ違っているように思えるのです。

友達のような関係であれば、終わりが来ることはないのでしょうが、新婚夫婦のパートではサヨが主体性を失った途端に終わりを迎えます。ここで更に、OR ENDというセットの文字が効いてきて、余韻を残したまま場面は第六幕へと進みます。

4.タツヒコ、マキ、チャム(オトナ)

第六幕ではガンギマリのタツヒコとマキのやり取りから始まります。
タツヒコがサヨと結婚した当初、新婚旅行でキメセクをしたことが第五幕で明かされますが、タツヒコにとってはサヨはすでにキメセクをしたい相手ではなく、マキを望んでいるということなのかもしれません。事実、マキとのセックスのあと、確かめるためにサヨとのセックスをするも満足できないことがマキの口から語られます。

クリスマスの予定を聞いて嫉妬したりと、タツヒコはマキを「必死に口説いてる」と言うのですが、マキはタツヒコの愛に関して非常に懐疑的です。「わたし」ではなく「わたしのペニス」が好きなんでしょうと言い放ちます。

タツヒコは以前にも「トランス男性のゲイ」と付き合っていたことを告白しますが、そのエピソードを聞いた時のマキの反応は、「身体が引き裂かれるほど辛かったんだね」という、マキのこれまでの人生の困難さを想像させるものです。

マキはタツヒコに何度も、「好きに呼んで欲しいの」と言うのが印象的です。クィアであるマキは、おそらくずっと自分の在り方について考え、悩み、生きてきたのでしょう。その結果として、タツヒコには「相手の望む」自分を提供しようとしています。

事実、第七幕でのオトナといるマキは、第六幕よりももっと人間らしく描かれています。

オトナはマキにとって「好きな人」であり、自分を理解してほしい存在です。タツヒコに対する何処か一歩引いた態度とはまるで違い、言いたいことを言っておかしいことはおかしいと言います。

そしてマキとオトナは、口論を繰り返しながらお互いの考えを知り、最終的には「アーティスト」としてマキは踊り、オトナは歌うことで理解を深めます。この時の2人の楽しそうな表情に、お互いを理解しあうことの幸福感が出ています。

そしてこの2人は、「セックスをしない」という決断をします。理由は、「わたしたちは、似過ぎてる。セックスって、違うからするんだね。」というもの。
確かに人間は、性行為なしでも分かり合える瞬間があり、そういう関係も存在するのだというメッセージが伝わってきます。

更にその後の第八幕では、「いらない」という曲のことをオトナが語る際、マキのことを「ワタヌキマキさん。恋人じゃないけど、大切な人なんだ」と優しい表情で言うのです。

5.オトナ、ジン、ショウコ

舞台は第八幕へと進みます。ここで描かれるオトナとジンの関係も、またとても難しいと思うのです。

オトナにとって、ジンはあくまで「憧れの存在」であり、「ジンさんを見てると歌が浮かんで来る」「舞台の上のジンさんを見て、ずっと抱きしめたかった」という発言からも「俳優としてのフクモトジン」を愛しているように見えます。何度ジンが話を変えても、何度でもジンの仕事の話へと戻ってしまうのです。

一方でジンは最初からオトナのことを「オト」と呼び、チャムという存在とは別に考えているような印象を受けます。

ジンがオトナのどこを好きになったのかはわかりませんが、オトナの「別にいいじゃん。僕が減るわけじゃないんだし。」「でも僕は変えてみせるよ。」「そんなのブロックしちゃえばいいんだよ」という発言からは、ずっと世間に隠してきた本来の自分を出すことへの恐怖を取り除いてくれるような前向きな力を感じます。

ただ、いつかジンはオトナが「俳優フクモトジン」の姿を見ていることに、今のショウコとの関係と同じように絶望してしまう気がするのですが、それは考えすぎでしょうか?

話の流れでショウコの話が出ると、「仕事の話はやめてって言ってるでしょ」というジン。

その後に第九幕で登場するショウコは、最初からジンを「使用人」「下僕」と呼んだりしています。いくら酔っているとはいえ、ジンのことを1人の人間としては扱っていません。

たしかにジンの「好きな人ができた」というセリフを受け、ショウコが心配するのは子供であるユウトのことを除いて全て仕事の内容であり、「商品としてのフクモトジン」のことだけです。事実、「人間が嫌いだから!」というショウコに対し、ジンが思わず「俺だって人間だよ!」と怒鳴ってしまうところからも、フクモトジンがずっと商品として扱われ、本当の自分を尊重されてこなかったことによる引き裂かれそうな苦しみが現れています。

その後のショウコの「公表するかは保留。全部全部保留。今は眠ろう、目の前の眠りを全うするの。」というセリフの後のジンの表情からも、自分の人生なのに自分でコントロールすることのできない苦しさ、自分の人生が自分のものではないかのような虚しさが伝わってきます。

そしてついに最終幕へ。
マカナとショウコが登場し、「輪舞」ってそういうことか!と観客を驚かせて舞台はフィナーレを迎えます。

最後に

非常に長くなりましたが、東京輪舞の一個人の邪推をダラダラと書いてみました。
間違っていることだらけでしょうが、わたしはこういう受け取り方をしたよ、という意味で残しておきたいと思ったので文字にしておきます。

創作物というのは、受け取り手によって全く異なる解釈がなされて、それがもし作り手とは違ったとしても、それはそれでいいんじゃないかな?と思うからです。

最後に、この舞台に髙木くんを通じて巡り合わせてくれたカンパニーの皆さんに感謝します。そして、髙木くんお誕生日おめでとう。素敵な34歳にしてください。